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弥生式土器について

1884(明治17)年、東京市本郷向ヶ岡弥生町(現東京都文京区)の貝塚で従来から知られていた縄文式土器とは違う土器が発見された。

この土器を発見した場所の名をとって弥生式土器と呼ぶようになった。

近年の研究で弥生式土器は朝鮮半島から入って来た技術ではなく、縄文式土器の延長線上にあり、縄文式土器が母体となって漸移的に変化、発展したものであろうと言われている。

弥生式土器の多くは生活必需品として、ものを貯蔵する壷、煮炊きに使うかめ、食物を盛り付ける鉢や高杯などに区分される。

そして機能を超越した呪術の土器と言われている縄文式土器とは大きく違い、必要以上の飾りや無駄を省いて、機能美あふれる形を作りあげた。

縄文式土器と同様に弥生式土器の多くもまた女性の手で作られたと考えられている。

前期の土器

わが国最古の弥生土器は、福岡空港にほど近い板付遺跡の発掘調査によって、初めて知られるようになった。

同地出土の土器は、その遺跡の名を取って板付式と呼ばれている。

この最古の弥生土器は、博多平野を中心とする玄界灘沿岸地方を主に長崎県壱岐・対馬・五島列島という限られた地に分布している。

最古の弥生土器よりはほぼ一段遅れて、遠賀川式土器は瀬戸内海沿岸部のごく限られた土地で作られ、そこを拠点にして波紋のように周辺部へ広がっていった。

他方、大阪湾沿岸部にもいち早く上陸した後、この地の豊かな風土に恵まれて、畿内の弥生土器が開花する。

木葉文で飾った壷や彩文土器が、その一つの現われである。

前期の土器の種類

(板付式土器) (瀬戸内第1様式) (畿内第1様式)

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中期の土器

中期に入ると、九州の土器は文様を急速に捨て去っていく。

中期中頃になると、須玖式の名で親しまれている土器群が登場する。

これらは形も優美で、全体を赤く塗り磨きあげた丹塗り研磨土器が多く、直線的な凸帯文とともにその美しい形を競い合っている。

近畿地方では、中期中頃になると櫛描文が最盛期を迎える。

東日本に弥生土器が最初に普及したのは、中期の初め頃になる。

しかし同地が急に弥生土器に変身したわけではない。

そこでは磨消縄文や工字文をもつ縄文的な弥生土器が作られていた。

中期の弥生土器の種類
(須玖式土器) (瀬戸内第2、第3、第4様式) (畿内第2、第3、第4様式)

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後期の土器

近畿地方の後期土器でもっとも特色のある技法は、叩き板による成形法であろう。

関東地方以西の土器の地方色は、次第にいくつかのまとまりに統合されていく。

東海地方から南関東に至る地域の土器は、口の周辺部を幅広く作って、粘土紐を縦に貼り付けたり、施文部以外の器面を赤く塗った、いわゆるパレススタイル的な特徴が共通しており、最初に発見された弥生町式の土器もその典型である。

弥生町式に続く前野町式の段階になると、土器作りは粗略化の方向へ向かい、文様をつけることもまれになる。

この頃、西日本ではすでに古墳時代に入っていた。

一方、東北地方では後期に至っても土器の文様にはまだ縄文文化の伝統が部分的に生き続けていた。

後期の土器の種類

(西新式) (瀬戸内第5様式) (畿内第5様式) (久が原式) (弥生町式) (前野町式) (天王山式)

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